KERA・MAP#003『砂の上の植物群』(2005/05/12 19:00-)

小雨の降る中、会場へつくと「開始19:00、終演22:15」ってー。休憩あっても3時間ですかい、そうですかい。でも、そんなに長いって感じませんでしたよ。KERAさんのお芝居見るの、まだ2回目なんでそんなたいそうなことは言えません。はい、いつも言えません。単なる感想をつらつらと。

そう遠くない未来。その旅客機は、日本へ戻る途中、とある戦地の海辺に墜落した。
油まみれの海に投げ出されて奇跡的に生き残った10人足らずの男女。
彼らは廃墟と化したかつての住居にかくまわれる。
屋上から見えるのは海と、荒れ果てた砂地に飛び交う銃弾と塵、転げ回り、やがて動かなくなる兵士たち、そして、浜に頭から突き刺さった謎のロケット・・・。
絶望と希望を独自の距離感でスケッチする、ケラリーノ・サンドロヴィッチの最新群像劇。―シリーウォークHP

冒頭、旅客機のシーンではなんだか演劇っぽいというか、なんというか、舞台ってこういう使い方ができるから楽しいよなーって思えるような感じで始まりました。絶望と希望、正気と狂気、シリアスとコメディー。そんな要素がぐるぐると混ざり合った舞台。前に見た『消失』もそうだったのですが、今回も「狂気」にはぞっとしました。「狂気」にもいろいろあるんだけど、いろいろあるだけにリアリティーがある。急にやってくる「狂気」と徐々に向かっていく「狂気」。はっきり見て取れる「狂気」と内に潜んだ「狂気」。人は簡単に狂気に向かう。人はこんなにも弱い。
大音量の音楽はなぜか心地よく、でもピストルの音や、コワイ小道具にはビクリとし、心臓の弱い私はこういうビクリとするやつはヤダな…とちょっとだけ思いつつ、後半、どんどん逃げ場がなくなっていく感にひきこまれました。ラストはちょっと…という気もするのですが、不思議なのは「前向き感」が感じられるわけでもないのに、観終わったあとに残るのは絶望とか嫌な気持ちではないということ。お芝居で観たことをそのまま引きずるのではなく、お芝居をきっかけに自分の中にそれとは違う思いがくるくると回り始める。
私が観終わって考えたことは「世界の終焉に、何を持っていくのか」ということ。私は今、ここで、両手に抱えきれないというありがちな表現では足りないくらい、指の間や爪の間に持ち手をひっかけてまでたくさんの、たくさんのものを持とうとしている。それは今、ここだからできることなんだろう。ここであることに感謝するとともに、じゃあ、自分は…「何もない」ところでどうするのだろう。無理矢理何かを見つけようとするのだろうか、それとも何かを持つことをあきらめるのだろうか、それとも全ては無理でも、今もっているものを少しは持ち続けることができるのだろうか。
温水洋一渡辺いっけい両氏はすごかったです。なんでしょう、あの存在感。しかしまあ、役者だから当然といってしまっていいのかはわからないけど、観ていてすごく嫌な気持ちになったり、すごくカチンときたり、すごく目を背けたいような気持ちになったり、怖くなったり、そういう負の感情を狙い通りに観客に抱かせるのはさすが。いっけいさんのすごーい嫌な感じとかね。猫背さんの「狂気」への向かい方とかね。そして池谷さんの笑える「狂気」もよかったです。初舞台という常盤貴子は生で見るとほんと綺麗でした。キレイな人がキレイであることによって持つ負の面がもうちょっと弱い感じがしましたが。でもよかったと思います。舞台たくさんやったらまたよくなるんじゃないかなあ。今回ハプニングがあり、2幕で皆が拘束されている中、寝ていた山本浩司が起き上がり寝言をいい、またバタリと寝る、というシーンがあったのですが、バタリと倒れたときに、セットの角に思いっきり頭をぶつけてしまったのです。他の役者さんも、お客さんも、かなり笑っていたのですが、その次の台詞が「何がおかしいの?」というものでして。本来なら、寝言を言ってまた眠る、といった彼の行動をおかしがっている他の人たちの緊迫感のなさを指摘する台詞だったのだと思うのですが、これがちょっとうまく作用しなかったかなあ。だって笑っちゃってましたもんね常盤さん。まあしょうがないけど。そして筒井道隆はあくまでもどこまでも筒井道隆なのでした。でもね、これ、すごいことだと思う。「いつもそうだよねー」じゃなくて、ここまでくるともう、こういう役をやらせたら右に出るものはいないのではないかと。演技とかじゃなく本当にこういう人なんだと思わせる、不思議な人です。すごいよ筒井くん。
カーテンコールでは4度出てきて、KERAさんもでてきて。最後はKERAさんに言われて常盤さんと筒井くんが2人で笑顔で、でもちょっと照れくさそうに頭をさげて終了。トータルでは3時間ちょい、ってところでしょうか。腰は痛くなったけど、でも、おもしろかったです。